最近の目覚しい医学や薬の進化で、人間の生死を多少コントロールできるようになった。
「老人終末期医療」に大変な議論が続出した。
医療費抑制が大きく取り上げられている。
前期高齢者(何歳から?)である私は、過剰医療はお断りしたい。
親の介護やいろいろな方のお見舞いで、病院によく行ったことがある。そこでの現実は、意識もはっきりしない御高齢の方が、多くの管をつながれてベッドで過される姿である。
もし自分がそのような状態になったら、何もしないでほしい。自然のままにながーい人生を終わりたい。多くのチューブが取り付けられて、機械によって無理に生かされるのは悲しい。
医療費や若年世代の負担の問題ではなく、如何に人生の終わりを迎えるかきちんと判断して意思表示を残すことである。その決定を家族に託すのは酷である。
それには、「老人終末期医療」が如何なるものであるか現実を良く見て、それでも一日でも長く生きたい人はそうすればよい。自分の口から食べ物を取ることができなくなっても
胃瘻イロウという直接胃に穴を開けて管を入れて栄養剤を送り込むことも出来る。
昔の人は死期を覚り、優雅な最期を迎えたようである。
釈迦は沙羅双樹の木の下に横たわり、弟子達に見守られながら入滅した。釈迦の入滅年代は明らかではない。
弘法大師(空海)は高野山の奥の院の霊廟で、入定。死後も座ったままで、髪の毛や髭が長く延び続けていた(今昔物語)とか。
西行の有名な歌に「願はくは (桜の)花のしたにて 春死なん その如月の望月のころ」(山家集)とある。このように幻想的な花の下で西行は望み通り入寂した。
弘法大師も西行も60歳代前半で亡くなっている。
今の日本では平均寿命が長くなりすぎて、問題が多い。
願わくは、気がついたら息をしていなかったというような自然な最期がよい。
医療費の問題でも保険制度の問題でもなく、如何に死を迎えるか。多くの人は西行のごとく「花の下にて春死なん」と願っていると思われる。
関西に「ぽっくりさん」と呼ばれる寺が昔から人気がある。この寺にお参りすると、家族に下の世話などかけないでぽっくりと死を迎えられるということである。